頭士 真砂樹: INNOCENT 現像の無垢を待ちわびるように
“「光と化学、そして不測のもの」
レンズを通った光が特定の場所にその像を結ぶという現象を発見したのち、人類は感光性のある物質に出会うことで初めて世界の像を定着することに成功した。
19世紀のその出来事以降、次々と進む写真技術の革新と同時代の心理的な感覚のあいだには絶えざる「世界の見え方」に関する葛藤があった。
技術というものは一般的に常に明解・確実で安定した方法を求めて進化するものである。
現在、時代は前時代的な方法・直接物体を扱うアナログ的なもの(漸次的なもの)から、新時代のデジタル的な方法(アナログ世界を数量化してそのデータを扱う方法)へと大きく変化する時期にあたっている。
しかし、こうした世界の動向の一方で、私はこの世界のいわば測りがたい側面、判断不能のもの、中間的で曖昧なもの、あるいは言語表現を拒絶したところにあるようなもの、そうした方向に魅力を感じてきた。
それゆえに、旧写真技術における化学的な意味での不安定さや、各素材の特性の中にある微妙な反応を生じる領域、コントロール可能のものとコントロール不能のものが同時に存在する領域に心惹かれるのである。
ある境域で生まれるあまりにも微細なコントラストの変化や微妙な色彩の移行は、私の意図の範疇を超えて、更に感覚の別領域を強く魅了して止まない。
人には本来そうした微細な変化や移ろいに呼応して、敏感に働く感覚機能(心理的能力)を持っており、そして視覚対象への注意度が深くなるにしたがって、通常の言語感覚を離れるといった事態も生じてくる。
そしてそこに生じるのはある別様の世界感覚であり、いわば日常に対する、非日常への接点とも言えるであろう。
私が自己の作品において求めているのは、日常の世界での感覚様式をゆるめて自己の内外の感覚を開放する視覚対象となるものを制作することである。
私達は様々な似通った価値観や世界観、あるいは互いに相反する価値観や世界観の海の中を無意識に漂っているような存在であるが、現代は、人々が価値観の多様化の方向と同時に、より強力で支配的な価値観を求めて争っているとも言えるであろう。
こうした様々な一致を見ない価値観念に無防備に晒されているがゆえに、多くの人々は存在する繊細な感覚に殆んど注意を払わなくなっているように見える。
ある価値観を持つということは対象を常に特定の基準に従って判定・判断し、その基準によって自分と世界との関係を価値付けることである。
複数の目に見えない価値観同士の対立が、私たちを社会環境の中だけではなく、同時に心理的にも分裂・混乱させ苦しめているのは疑いのない事実ではないだろうか。
だからこそ、私は特定の価値観による判断の力を獲得し強める方向ではなく、寧ろその力をゆるめる方向を意図したいのである。
自分達を取り巻く強力な価値観念をゆるめること、それは個人の(内的・外的な)感覚を取り戻すことにつながっており、またそれは、対象を即座に価値判断するのではなく、先ず判断する以前に対象を十全に受け取ろうとすることから始まるプロセスであろう。
物事の印象を直に受け取ると言うことは、先ずは自発的に自己の判断を控えて後にするということであり、心理的には内的言語活動を控えておくということでもある。
そのような行為やプロセスからは別様な世界認識の可能性が開かれていると私は感じている。”